緊急事態
家族に何が起こったのか?

極限状態に陥った時、あなたは正しい選択ができますか?
家族で遭難した場合、もしも食料が尽きたとしたら……
耐えられないほどの空腹の中、あなたは正常でいられますか?
この事件が起きたのは1879年のカナダ。
平穏な午後の教会に、1人の男が駆け込んできた。
「家族で狩りに出かけたが、食料が尽きて皆死んでしまった」と男は言う。
「私だけが何とか生き永らえ、こうして戻って来れたのです」
神父は眉をひそめていた。
なぜなら遭難していたというその男が、めちゃくちゃ健康そうだったからだ。
1879年3月。
カナダ、セント・アルバート。
この日、地元のカトリック教会に1人の男が助けを求めて駆け込んできた。
男は神父にすがりつき、自身の家族に関して何やら必死に説明している。
その様子は只事ではなく、神父は男を落ち着かせてから詳しい話を聞いた。
男の名前は、スウィフト・ランナー。
ネイティブ・アメリカン、クリー族の出身である。
スウィフトは神父にこう訴えた。
「冬の間、私達の家族は狩りに出ていたんです。ですが途中で遭難し、頑張りましたが家族は皆、飢えて息絶えていきました」
「獣の革でできたテントを刻んで茹で、それを噛んで飢えを凌ぎましたが駄目でした。……私はどうにか冬を乗り切り、こうして助けを求めに来られたのです」
なるほど、それは大変なことだ。
男の話が本当ならば、彼の家族の亡骸は今も森の中でそのままになっているということである。
早く家に帰してあげなければ。
しかし次の瞬間、神父の脳裏をある疑惑がよぎった。
――この男、家族は飢えて死んだと言ったが。
――彼自身はこんなにも健康的でぴんぴんしてるじゃないか?
◆森の中の出来事
スウィフト・ランナー。
本名はカーティスト・チェン、正式な読み方は「カ・キ・シ・クッチン」という。
生年月日は不明だが、カナダは現在のアルバータ州の出身。
スウィフトはクリー族のインディアンとして生まれた。身長は180センチを超えており、当時としてはかなりの大男だった。
その逞しい外見と陽気な性格により、クリー族のコミュニティーではかなりの人気者だったという。
結婚後は6人の子宝に恵まれ、北西騎馬警察の罠猟師、及びガイドとして働いていた。若い頃に受けていたクリー語の教育が、ここで役に立っていたのである。
スウィフトは誰からも好かれる温和な性格であり、妻と子供達のことを心から愛していた。
幸せな生活は続いていたが、時が経つと共に少しずつスウィフトは変わっていった。
きっかけは、何らかの理由でスウィフトが職を失ったためである。
そこからスウィフトはウイスキーばかり飲むようになり、あっという間にアル中になってしまった。
しかもかなりの酒乱だったスウィフトは、酔っ払うたびトラブルに巻き込まれ、警察の厄介にもなっていたのである。
そんな暴力的な傾向を見せていたためか、やがてスウィフトは家族と共にクリー族のコミュニティーから追い出されてしまった。
そうして彼らはコミュニティーから離れた森の中にキャンプを張り、狩猟をすることで食料を得るようになったのだった。
1878年の冬。
スウィフトは妻と6人の子供達、妻の母親、弟と――総勢10名で森へ出かけた。
目的はもちろん、生きるための狩りをすること。
しかし読みが外れたのか、狩りは全く上手くいかない。
獲物が取れない中で食料は少しずつ減ってゆき、冬の寒さもあって家族の体力は急速に失われていった。
このままではいけないと、義理の母と弟が意を決して食料を探しにキャンプを離れた。しかし、2人の姿を見たのはそれが最後となってしまった。
いつまでも帰らない義母と弟を待つ中、最初に息絶えたのは子供達である。
6人いた子供達の年齢は不明だが、恐らく幼い子もいただろう。
寒さと空腹で1人ずつ息を引き取ってゆく子供達。
どうすることもできないスウィフトと妻。
やがて子供達が皆天国へ旅立ってしまうと、あまりの悲しみと絶望に、スウィフトの妻は猟銃を使って自らも命を絶ってしまった。
誰もいなくなった森の中。
スウィフトは必死で冬を持ちこたえ、春になってからようやく森を抜けることができた。
奇跡の生還を果たしたスウィフトは、とにかく最初に目に入ったカトリック教会へ 助けを求めて転がり込んだのである。
―――。
■衝動の理由
教会に助けを求めたスウィフトは、神父の通報で今度は警察に連れて行かれた。
警察でも神父にしたのと同じ説明をしたのだが、警官が話に突っ込むと口ごもったり、話に曖昧な部分があったり、かなり不自然な点が多かった。
それに神父も感じた通り、遭難して命からがら逃げてきたわりには肌艶も良く、体格も良く、とても飢えているようには見えない。
ここは事実をはっきりさせるべきだと、警察はスウィフトに現場まで案内をさせた。しかしスウィフトは、現場に着くまでに2度も逃げようとしたのである。
それだけでなく、わざと違う場所に警察を誘導するなどし、いかにも怪しい。ますます怪しい。
そうして最終的にはスウィフト達のキャンプ地に到着したのだが、警察はその恐ろしい光景に呆然としてしまった。
いたる所に人骨と思わしきものが転がっており、中には肉切れや、はっきりとした形の頭蓋骨もあった。
湯沸かし用の壺の中には、ドロドロとした人間の脂肪と油も入っていた。
この状況が全てを物語っていた。
つまり、スウィフト・ランナーが家族を全員食べたのである。
神父には「テントの革を茹でて噛んでいた」と説明していたが、実際のテントには 傷一つ付いていなかった。
こうしてスウィフト・ランナーは、家族を手にかけて食べたとして逮捕され、裁かれることとなったのである。
取り調べ中、スウィフトは自身についてこう証言をした。
「私は、ウィンディゴに取り憑かれていたのです」
ウィンディゴというのは、スウィフトのクリー族やアルゴンキン族、オジブ族といったインディアンの人々に昔から信じられている魔物である。
ウィンディゴに取り憑かれると反社会的な行為をするようになり、人の肉を食べたい衝動に駆られるというのだ。
このネイティブ・アメリカンの神話に出てくる魔物は、彼らにとっては現実的な存在として信じられていたのである。
実際1800年代にはアルゴンキン族の一部がウィンディゴに支配され、仲間の肉を食べたという記録もあるそうだ。
もちろん魔物はこの世界では架空の存在だが、先代から伝承を受け継いできた彼らにとって、ウィンディゴは単なる御伽噺ではない。
スウィフトも妻や子供達の肉を口にした時、ウィンディゴに取り憑かれていたのである。
初めは、悪夢を見ることから始まった。
ウィンディゴはスウィフトに、周囲の人々を食うよう呼びかけていた。
やがてウィンディゴがスウィフトの心に入り込み、徐々に浸透してゆき、ついにスウィフトはウィンディゴになってしまった。
ウィンディゴと化したスウィフトは妻や子供達を手にかけ、調理して食べてしまったのだ。
しかし、当然ながら当局は、ウィンディゴの話などハナから信じていなかった。
インディアンの時代遅れな迷信としか思っておらず、スウィフトの訴えをまともに聞こうともしなかったのである。
◆スウィフトの裁判
1879年8月8日。
殺人と人食いの罪で起訴された、スウィフト・ランナーの裁判が始まった。
陪審には、英語を話すクリー族のハーフの人が3名、クリー語に精通した男性4名、クリー族の男性1名が含まれていた。
目撃者の証言が行なわれている中、スウィフトはじっと静かに座っていたという。
中には数年前にも同じようなことがあり、スウィフトは命を繋ぐため狩猟仲間の遺骨を食べざるを得なかったのだが、その時から人肉の味を覚えたのだ――という証言もあった。
スウィフトがウィンディゴに取り憑かれていると信じている人もいた。
裁判の結果、スウィフト・ランナーは有罪。
絞首刑に処せられることが決定した。
そうして同年12月20日。
サスカチュワンの砦で、スウィフトの処刑が行なわれた。
彼はカナダのアルバータ州で、合法的に絞首刑となった最初の男性だった。
今日では、ネイティブ・アメリカンの中で信じられていたウィンディゴなるものは、この地域の先住民の間で発症する「精神疾患の一種」だといわれている。
「ウィンディゴ精神病」と呼ばれたそれを発症した人によると、暴力的になったり、人を食べたい衝動に悩まされたというのだ。
とても信じられない精神病だが、当時のアルゴンキン先住民文化の間では決して珍しい現象ではなかったという。
ウィンディゴ精神病は時代の移り変わりと共に、20世紀には消滅している。
★
家族を手にかけ食べてしまった男、スウィフト・ランナー。
その衝動は魔物の囁きか、精神的な病からくるものだったのか。
どちらにしろ家族が憎くてそうした訳ではなかったのだろう。
もしも同じ事件が現在起きたなら、精神病院に行く確率の方が高いように思える。
本事件が恐ろしいことに変わりはないし、家族の無念さを思えば辛くなるが、もしも精神疾患が犯行の理由だったならば、少し悲しくも感じてしまう。
ルドルフ

本事件を動画で見たい方はこちら
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