辺獄インフェルノ

世界の怖い事件をまとめています

🌍 世界の片隅で起きた、真実の記録。
遠い国の出来事のようでいて、今を生きる僕たちにも通じる――
このブログでは、実際に起きた事件や人間のドラマを
静かに、丁寧に語り継いでいきます。

人食い島「ナジノ島」事件

悲劇の島

消されかけた約6000人の記憶

 

 

「ナジノ島」という名前を聞いたことがあるだろうか?

 かつて、ソビエト連邦が存在していた頃のこと。

 多くの人々が強制的に島へ連れて行かれ、食べ物も着る物も不足している中、約1ヵ月も放置された。

 この事件が起きたのは1933年のソ連。

 訳も分からず連行された彼らは、飢えと寒さと絶望の中――

 弱った者から食べられていった。

 

 

 1933年5月。

 西シベリア、ナジノ島。

 静かな朝、雪が積もるナジノ島に13歳の少女が立っていた。

 彼女は物陰から、じっと「それ」を見つめていた。

 島のいたる場所で人間が倒れ、人が人に群がり、その肉を食べている光景を。

 これまでは質素ながらも普通に暮らしていた、島の先住民の少女。

 ある日突然船に乗った軍服の男達が現れ、大勢の人々をこの島へ上陸させたのだ。

 彼らが何のためにきたのか、少女は知らなかった。

 極寒の島に現れた何千人もの人々は充分に暖かい格好をしている訳でもなく、皆不安そうな顔をしていた。

 大人も子供も、男も女も、老人も。

 様々な人達がこの島で過酷な生活を強いられ 命を落とすことになるなんて。

 少女は思ってもいなかった。

 

 事の発端は、1932年のソ連で「パスポート制度」が復活したことにあった。

 以前もその制度はあったのだが、パスポート制度は国民の自由な移動を制限するものだとして革命が起こり、これまでは廃止となっていたのだ。

 しかしパスポートがなくても国内を自由に行き来できるということで、地方に住んでいた農民たちが一気に都市部に押し寄せた。

 なぜなら当時のソ連の経済政策は農民たちに厳しく、私有財産を没収されるなどして貧しく苦しい生活を強いられていたからだ。

 そんな農民たちが仕事と希望を求めて都市部に流れ、その結果、治安の悪化や住居の不足などの大問題が起きてしまった。

 

 そこでパスポート制度が再び導入されることとなり、ただちに交付が行なわれた。

 しかしパスポートを受け取ることができたの、 国の礎となる労働者の人達だけだった。

 地方からやってきた多くの人達は、身分証明書の代わりにもなるパスポートをもらうことができなかった。

 

 そうしてパスポートを持たない人々が大勢逮捕されることとなったのである。

 なぜこんな不公平が起きたのかというと、裏でもう1つの計画が動いていたからだ。

 

 1933年2月。

 国の指導部として活動していたゲンリフ・ヤゴダと、強制労働収容所の管理をしていたマトヴェイ・ベルマンという2人の男が、スターリンに「ある計画」を提案した。

 それは、大勢の人々をシベリアの広大な土地に移動させ、そこで自給自足が可能な 特別村を建設すること。

 それによって国内からは、役立たずで不必要な人間を排除できるという考えである。

 ここでいう不必要な人間というのは、当時のソ連を悩ませていた飢饉によって作物を生産できない農民、浮浪者、娼婦、聖職者などである。

 彼らは「社会の役に立たない」と見なされ、シベリア行きの候補となっていたのだ。

 

 そうしてスターリンがGOサインを出す前に、計画は実行された。

 復活したパスポート制度を口実に、多くの人々がパスポート未所持で逮捕された。

 しかし、それはとても雑なものだった。

 国の指導部はシベリア行きの人数を計画通りに揃えるため、パスポートは交付されているのにたまたま所持していなかった人達をも逮捕の対象にしたのである。

 例えば休憩中に、タバコを買いに外へ出たバスの運転手。

 家族の住む実家へ遊びに来ただけの学生。

 声をかけられた時、不運にもパスポートを持っていなかったというだけで、彼らは容赦なく人々を逮捕していった。

 ちなみに警察署長や検視官の息子が逮捕されることもあったが、そういう場合は権力者の父親によってすぐさま釈放されていた。

 多くの誤認逮捕された一般市民は、そのまま連行されてしまったのである。

 逮捕された中には、刑務所の超過問題の解消として、多くの犯罪者も含まれていた。

 シベリアへ送られることとなった人々の人数は、6千人を超えていた。

 

 

◆悲劇の島へ

 逮捕された彼らは木材運搬用の艀船(はしきぶね)に乗せられ、シベリアのオビ川に浮かぶ島へと移動させられた。

 ナジノ島と呼ばれていたそれは、少数のオスチア族と呼ばれる人達の集落があるだけの小さな島だった。

 ここへは一時的に上陸しただけで、本来の目的地はもっと東にある強制移住地だった。

 目的の移住地で住居の割り当てを決める間だけ、ナジノ島に滞在する――ということだった。

 

 4隻の船でナジノ島へ運ばれた人々だが、移動している間に与えられた食料は1日200グラムのパンだけだった。

 ちなみに6枚切りの食パンが1枚約63グラムなので、朝・昼・晩のそれぞれの食事が 食パン1枚というのと同じことである。

 

 5月18日の午後。

 男性4556人、女性322人がナジノ島に下ろされた。

 移動中27人が命を落としており、無事到着した人の中でも半分以上が衰弱し自力で立つことができなかったという。

 

 9日後の5月27日には、更に1200人ほどの人々が島に到着。

 こうして6千人以上の人々がナジノ島に集められたわけだが、彼らは逮捕された時と同じ服装のままだったため、この冷たい島の風雨や寒気に耐えねばならなかった。

 しかも上陸直後は雪も降っていた。

 屋根のある仮の住まいを作ろうにも、道具を一切持っていない。

 そして、寒さと同じくらい深刻なのが食べ物である。

 食べ物は、上陸から4日間は何も配給されなかった。

 

 やがて20トンの小麦粉が到着して配給されたものの、人々が奪い合いを始めたため 銃による鎮圧が行なわれた。

 なるべく暴動が起きないよう人々は150人で1つのグループに分けられ、そのグループの班長を通して配給が行なわれることになった。

 

 皆さん、移送者の中に刑務所の犯罪者がいたというのを覚えているだろうか?

 そんな犯罪者が生死を賭けた場面で一般市民の下につくはずもなく、班長の多くは犯罪者が請け負うことになった。

 そのためグループにおける小麦粉の配給は、犯罪者達が権利を独占することになったのだ。

 

 しかし、そもそも小麦粉をもらったところでパンを焼く窯がない。

 人々は川の水で小麦粉を溶かし、冷たいお粥のようになったそれを食べたのである。

当然ながら、多くの人がお腹を壊す結果となった。

 

 即席でいかだを作って逃げようとした人達もいたが、島を囲んでいた監視兵は当然、脱走にも目を光らせていた。

 川下には逃げようとして狙撃された数百人の遺体と、バラバラになったいかだが浮かんでいたという。

 

 住居も食料もない中で寒さと飢えに苦しんだ彼らは、疲労で息を引き取ったり、焚き火の傍で寝たために火が移って焼け死んだり、あるいは護衛兵の容赦ない暴力で亡くなったりと、次々に命を失っていった。

 

 そうして彼らがナジノ島に来てから10日目――。

 過酷な日々の中、ついに「ある事」が起き始めたのである。

 それは誰も止めることのできない、弱肉強食の生き残り戦争であった。

 

 管理していた兵隊も新兵ばかりで 何も解決することができなかったという。

 結局スターリンはこの計画を却下しているが、その時にはもう遅かったのだ。

 

 

◆共食いの島

 次々と人が倒れていく中、彼らは生きるため「奪う者」と「奪われる者」とに分かれ始めた。

 ある時は配給された食料を強奪し、ある時は金目の物を奪ったり、倒れた遺体から金歯を抜いたりもしていたという。

 それらの価値ある物は、犯罪者達が管理している食料と交換する際に使われていた。

 監視兵は人々の争いには無関心で、島は無法地帯と化していた。

 島の衛生状態を視察するために医師が派遣されたが、あまりの状況に身の危険を感じて逃げ帰ったこともあった。

 

 そうして5月下旬には、ついに人の肉を食べる者達が現れ始めた。

 彼らは亡くなった人に群がるのではなく、食べるために人を手にかけるようになったのだ。

 島に連れてこられた犯罪者達は徒党を組み、一般市民を襲い、その肉を口にした。

 

 ナジノ島の集落に元々住んでいた当時13歳の少女は、そこで行なわれた恐ろしい出来事を目にしていたという。

 

 一般市民の中に、1人の美しい女性と、彼女に目をつけた護衛兵がいた。

 2人が相思相愛だったのか、ただ護衛兵が女性に言い寄っていただけなのかは分からない。

 とにかくその場から護衛兵が立ち去った後、たちまち犯罪者達が女性を襲い、木に縛り付け、食べられる部分を全て切り落として食べたのだ。

 こんな目に遭うのはその女性だけではなかった。

 島のあちこちで同じようなことが起こり、抵抗する力のない者から次々食われていったのだ。

 

 また集落の住人の元に、助けを求めてやってきた者もいた。

 住人フェオフィラさんは、ある日やってきた「ふくらはぎを切り取られたお婆さん」のことを憶えていた。

 お婆さんの脚は壊死しかけていて、雑巾が巻かれていたという。

 もちろんふくらはぎの肉は食われてしまったのである。

 それにも関わらず、彼女は必死で歩いてきたのだ。

 驚いたのは、お婆さんだと思っていた女性が実は40歳だったことだとフェオフィラさんは語った。

 

 そうして島に上陸してから1ヵ月後――

 ようやく生き延びた人々がナジノ島から出されることとなった。

 とはいえ、これで終わりではない。

 ナジノ島を出るということは、本来の目的地へ移動するということだ。その移送中にも数百人の犠牲者が出たという。

 また助かる見込みのない157人は、ナジノ島に置き去りにされていた。

 

 生き延びた人達はシベリアの強制移住地に移され、身を切るような寒さの中、粗末なバラックで食事もろくに与えられず命を落としていった。

 更にはチフスも蔓延し、病死した者も大勢いた。

 当初は6千人が連れて来られたものの、生き延びたのは約2000人だった。

 

 しかもこの事件は機密扱いとされ、歴史の闇に葬られようとしていたのである。

 

 

◆ヴェリチコの報告書

 当時のソ連に、共産党の地方組織で指導監督官をしていたワシリー・ヴェリチコという人物がいた。

 彼は1933年の7月、「逮捕された人々が移住地でどのように再教育されたのか」という報告書を作るため、強制移住地へと向かった。

 そうして彼は知ったのである。大勢がそこで命を落としたということを。

 ヴェリチコは当初の任務どころではなく、この事件の真相究明に全力を注いだ。

 

 ヴェリチコがスターリンに送った報告書によれば、

「6114人がナジノ島に到着。うち27人が移送中に亡くなった。

 ナジノ島に到着した最初の夜は雪が降り、4日間食料の配給がなかった。

 島に到着した初日に295人の遺体が埋められた。

 生存者は2200人しかいない。

 しかもその半数以上は病気で寝たきりで、労働に耐えうる状態の者は300人ほどしかいない」

 

 ヴェリチコの報告書を受けた共産党本部はただちに特別委員会を作り、調査を行なった。

 徹底的な調査の結果、島で見つかったのは31ヵ所の埋葬場。

 それぞれの埋葬場には50~70人の遺体が埋められていたのだった。

 

 のちに80人以上の移住者と護衛兵が裁判にかけられ、うち23名が略奪行為と殺人罪で最高刑を言い渡された。

 また、食人の罪で11人が銃殺刑となっている。

 

 そうして調査が終了したのち、ナジノ島の悲劇はヴェリチコの報告書と共に機密扱いとなった。

 ヴェリチコはのちに第二次世界大戦を生き抜き、シベリアの社会的変貌についての本を何冊か執筆したが、死の島については結局書かなかったという。

 

 

 ナジノ島の悲劇は長年にわたって隠されていたが、1980年代後半のゴルバチョフによるグラスノスチ、つまりは「情報の公開性・透明性、表現の自由や報道の自由を拡大する政策」によって明らかになった。

 人権保護団体・メモリアル協会の尽力により、ナジノ島で起こった事件の詳細を初めて一般市民が知ったのである。

 それは奇しくもソ連崩壊直前のことであった。

 

 

 ★

 

 

 不完全な計画から取り返しのつかない事態に発展してしまったナジノ島事件。

 強制移住させられた人々は被害者でしかなく、まるでその命は弄ばれたかのようである。

 このような悲劇の歴史は多い。

 現代を生きる僕達は 過去から学んだことを生かすために何をすべきか、考えることが大切なのだと痛感する。

 

ルドルフ          

 

本事件を動画で見たい方はこちら

 

 

 

 

 

 

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