人民寺院
恐怖と絶望の革命的自殺
映画「サクラメント 死の楽園」の基となった事件

なぜ事件を起こす教祖たちは、信者と共に旅立とうとするのか?
集団で天国へ行こうとする教団は中世ヨーロッパでも多数見受けられていたが、20世紀に入ってからは社会的不安やメディアの発達によりその数は増加し、より目立つ存在となっていった。
その中でも20世紀、世界中にとてつもない衝撃を与えたカルト教団がある。
この事件が起きたのは1978年の「ガイアナ」。
ジム・ジョーンズという男が率いたコミュニティ。
社会正義と平等を掲げたグループだが、その裏では教祖による支配が行なわれていた
「人民寺院」。彼らが辿り着いた結末それは――
900人以上の信者による集団自殺だった。
1978年11月17日
ガイアナ協同共和国
この日、アメリカ合衆国の下院議員レオ・ライアンが、ガイアナの密林にあるコミュニティ、ジョーンズタウンを訪れた。
ライアン議員は2名のジャーナリストを連れて、ジョーンズタウンへの視察を開始した。
この訪問はコミュニティからの招待を受けたものではなく、むしろ外部の批判にさらされる中での強行的なものだった。
到着したライアン議員とその一行を待っていたのは、信者たちによる笑顔と温かな歓迎。
歌やダンスで彼らをもてなす信者たちは、一見すると幸せそうに見えた。
しかしこの穏やかな表情の裏には、隠された恐怖が潜んでいたのである。
やがてライアン議員のもとに、ある信者が近づいてきて訴えた。
「議員様、どうか助けてください。ここから連れ出してください」
この訴えが、ジョーンズタウンでの状況を明るみに出すきっかけとなった。
しかしそれと同時に、悲劇的な結末への扉をも開くことにもなったのである。
人民寺院。教祖の名前はジム・ジョーンズ。
「差別のない世界」を理想として活動を始めたが、次第に極端な思想に傾倒し、最終的に推定914人の信者に命を絶つ決断を迫った男である。

◆理想の始まり
ジェームス・ウォレン・ジョーンズ
1931年5月13日
アメリカ、インディアナ州の生まれ
父ジェームズ・サーマン・ジョーンズは、第一次世界大戦を経験した退役軍人だったが、アルコールに溺れ、白人至上主義団体「クー・クラックス・クラン」とも関わりがあったという。
母リネッタ・プットナムは気丈な女性だったが、一家は世界恐慌の影響で貧困にあえぎ、ジョーンズが幼い頃にインディアナ州リンという小さな町に移住した。
そこでは水道もない小屋での厳しい生活が待ち受けていた。
ジョーンズの少年時代は孤独だった。
友人を作るのが苦手だった彼は、いつも一人で遊んでいた。
母親の影響で宗教に興味を抱き、聖書を携えては自分の信念を語ることがあったが、その熱心さはしばしば周囲を驚かせたという。
幼少期の彼はただの孤独な少年ではなく、どこか異質な存在だったと語られている。
実験と称して小動物を虐めたり、納屋で「動物の葬儀」を執り行なっていたというエピソードは、その暗い側面を物語っている。
そうしてヒトラーやスターリンの伝記を読み漁り、彼らの「人を支配する力」に惹かれていたという。
またジョーンズは、幼少期から社会の不平等に敏感だった。
よってKKKと関わりのある父親との確執は相当なものだったそうだ。
ジョーンズが黒人の友人を家に招こうとすると、父がそれを激しく拒絶。これをきっかけに父親と口を利かなくなり、その後は父親が家族を捨てる形で両親は離婚。
母とともに新しい生活を始めたこの時、ジム・ジョーンズは12歳だった。
そしてこの経験が、後に彼が「差別のない世界」という理想を掲げる動機の一つとなったのである。
1948年、ジョーンズはリッチモンド高等学校を卒業。
聡明さを見せつける一方で、野心的な彼の姿が次第に鮮明になっていった。
翌年ジョーンズは宣教師の娘であるマーセリンと結婚し、貧しい地域での布教活動を開始した。
貧しい者たちにこそ希望を与えたい。
そんな理念から、ジョーンズは貧困層が集まる黒人のゲットーで布教活動を行なっていた。
収入は殆どない状況だったが、ジョーンズは猿を育てて売るなどして資金を捻出していたという。
ジョーンズは初め、福祉と平等を実現することに純粋な熱意を注いでいた。
人種差別と闘い、黒人のために尽力する姿は多くの人々の心を打ったが、同時に彼の活動は差別主義者から激しい憎悪を受けることとなる。
自宅への投石や火炎瓶攻撃は日常茶飯事だった。
それでもジョーンズはは屈することなく、1960年代初頭には多くの信者を集めるカリスマ的存在へと成長していく。
そうして厚い信頼を得ていったジョーンズは、家族とともに社会的な成功を収める。
息子スティーブンに加えアジア系や黒人の孤児を養子として迎え入れ、多文化共生を体現する家庭を築いたのだ。
地域社会への福祉活動も積極的に行い、救世主としての地位を確立するかのように思われた。
しかし、時代の混沌が彼を飲み込んでいった。
1950~60年代のアメリカ社会で顕在化した公民権運動、人種差別、冷戦、ベトナム戦争といった社会的・政治的混乱の中でジョーンズの理想は徐々に歪み、やがて彼の心を蝕む闇となり、「人を支配したい」という欲望が膨らみ始める。
善意の仮面の裏に狂気が芽生えたのは、この頃からだったのかもしれない。
◆人民寺院の設立
ジム・ジョーンズが人民寺院を設立したのは、単なる宗教的な試みではなかった。
それは彼にとって、差別や不平等などによる社会への反逆でもあったのだ。
ジョーンズは1950年代――アメリカの公民権運動が徐々に勢いを増す中で差別に対抗する「自分なりの戦い」を模索していた。
彼はインディアナ州インディアナポリスで、人種の壁を超える教会を作ろうとした。
当時は、黒人と白人が肩を並べて礼拝を行うこと自体がタブー視される時代だったのだ。
それでもジョーンズは、あえて社会的弱者の人々に手を差し伸べた。
そうして1955年。
ジム・ジョーンズが創設したピープルズ・テンプル・クリスチャン・チャーチ・フル・ゴスペル。
これがのちに人民寺院として知られるようになる団体である。
ジョーンズは「虹色の家族」という考えを自らの人生に体現した。
彼は白人でありながら、韓国・黒人・ネイティブアメリカンの孤児たちを養子に迎え、これを差別を乗り越える模範だとした。
ジョーンズの理念は寺院全体にも及び、黒人と白人が対等に交わる共同体を築くという目標を団結して掲げていた。
だがジョーンズの活動は賞賛だけではなく、激しい批判や妨害を受けることとなる。
寺院にナチスの象徴であるハーケンクロイツが描かれたり、火炎瓶が投げ込まれるといった事件が相次いだ。
ジョーンズは白人家庭にも積極的に対話を持ちかけるなどして不安を和らげようとしたが、周囲の敵意が収まる気配はなかった。
1960年代。
ジョーンズの心を大きく揺るがしたのが、核戦争への恐怖だった。
キューバ危機をきっかけに、彼は世界の終末を妄信し始めたのである。
ある雑誌記事で「核戦争の被害を免れる場所」として、カリフォルニア州ユーレカが紹介されると、彼は寺院の信者たちに「カリフォルニアへの移住が唯一の生き残る道だ」と説いた。
1965年。
ジム・ジョーンズは信者たちを連れて カリフォルニア北部のレッドウッドバレーに移住し、そこを新たな拠点とした。
この移転は、彼の信者たちに対する支配をさらに強固なものにする契機となった。
彼らは新たなユートピアを夢見ていたが、その裏ではジョーンズの妄想がますます膨れ上がっていったのだ。
カリフォルニアに移ったジョーンズは、徐々にその教えを変えていった。
聖書を投げ捨て、「でっち上げの神など信じない」と説く彼の言葉は、生活に苦しむ者たちの心をより強く掴んだのだ。
信者たちは彼を救世主と崇め、財産や時間をすべて捧げるようになった。
◆加速する狂気
ジム・ジョーンズの権力欲は止まらなかった。
貧しい者の味方だった心優しきジョーンズは、いつの間にか人を支配することに酔った暴君に変わったのである。
ジョーンズは夫婦間の性行為を禁じて信者たちの家庭を破壊する一方で、自分自身は男女問わず信者たちとの肉体関係を公然と持つようになった。
人民寺院には人種による差別はないと証明させるため、白人の信者に対し、黒人信者に性的な奉仕をするよう強要したこともあった。
こうして人民寺院は理想的な共同体から、ジョーンズ一人の欲望を満たすための装置へと変わっていったのである。
当然ながらそんなジョーンズの行動に疑問を抱く信者たちが現れ始め、人民寺院から次々と脱会するようになった。
その中には教会内部の異常性を公に告発しようとする者もいたが、ジョーンズはそのすべてを「裏切り」とみなし、脅迫や嫌がらせを仕掛けた。
信者たちの財産を奪い精神的にも追い詰める手法は、もはや宗教とは呼べないものだった。
元寺院信者がドキュメンタリーで語ったところによると、ジム・ジョーンズは「異性愛者なのはジョーンズ自身だけで、信者全員を同性愛者だ」と言っていたという。
そんな教えの中、別の元信者は「私と妻はジョーンズに対する本当の気持ちについて お互いに決して話さなかった」と語っている。
もしも本音がジョーンズに伝わってしまったら、どれほどの罰を受けるかわからなかったからだそうだ。
人民寺院は、最初は差別と闘う象徴的な存在として称賛されていたが、ジョーンズの野心と狂気がその基盤を蝕んでいった。
理想が狂気へと転じた瞬間、それは取り返しのつかない悲劇への道を進み始めたのだった。
破滅は、予期せぬ方向から始まった。
それは彼自身が信頼を置き、人民寺院の成長に大きく貢献してきた右腕――ティム・ストーンの裏切りによるものだった。
ティムは優秀な弁護士であり、ジョーンズのカリスマ性を信じ寺院の理念に共鳴していたのだが、彼の妻グレースとジョーンズの関係が全てを狂わせていったのだ。
グレースはティムの妻でありながら、ジョーンズの愛人でもあった。
彼女は寺院の中で、教祖であるジョーンズと特別な関係を築き上げていた。
1972年、グレースはジョーンズの子を出産。
生まれた男の子はジョン・ビクター・ストーンと名付けられたが、ジョーンズは彼を ジョン・ジョンと呼び、我が子として特別に可愛がった。
ジョーンズにとってジョン・ジョンは、単なる息子以上の存在だった。
それは、彼の理想と権力を具現化した象徴のようなものだったのだ。
しかしその関係は長く続かなかった。
グレースはジョーンズの支配に疑問を抱くようになり、特に寺院内部の異常な行動や脱会者への執拗な嫌がらせに恐怖を感じ始めていた。
彼女は悩みに悩み抜いた末、ついに寺院を去る決意を固める。
グレースはジョーンズの報復を恐れ、居所を転々としながら身を隠した。
同時に弁護士を雇い、息子ジョン・ジョンの親権を求める訴訟の準備を始める。
この行動はジョーンズを震え上がらせると同時に、グレースの夫であるティム・ストーンにとっても重大な危機をもたらした。
ティムは当時、人民寺院の支援を受けてサンフランシスコ地方検事補の地位に就いていた。
公職にある彼にとって、妻とジョーンズの関係が明るみに出ることは絶対に避けたいスキャンダルだったのだ。
もしこの問題が公にされれば、地方検事補と教祖の愛人関係という――衝撃的な見出しが新聞を飾ることになるだろう。そうなればティムの政治的野心が一瞬で崩れ去ってしまう。
一方で、ジョーンズの心は崩壊寸前だった。
愛人のグレースに裏切られたうえ、最愛の息子ジョン・ジョンを奪われる可能性に直面し、彼は激しい怒りと絶望に苛まれていた。
この状況が続けば、彼が築き上げた人民寺院が崩壊するのは時間の問題だった。
追い詰められたジョーンズは 新たな行動に出る。
信者全員を連れて国外へ逃亡し、新しい楽園を築く計画を実行に移したのである。
この計画こそが、ガイアナの密林地帯に「ジョーンズタウン」を建設するという決断だった。
この国外逃亡は、ジョーンズ自身と信者たちを破滅へと導くものだった。
愛憎と権力欲――そして恐怖に突き動かされたジョーンズの行動は、最終的に歴史に残る悲劇を引き起こすことになるのだ。
◆ジョーンズタウンの悲劇
1978年11月17日。
その日、ジョーンズタウンには異常な緊張感が漂っていた。
アメリカ合衆国の下院議員レオ・ライアン氏が、ジョーンズタウンを視察に訪れたのだ。
視察の理由は、人民寺院に対する人権侵害の疑惑を調査するためだった。
「ジョーンズタウンに移住した家族と連絡が取れない」という人々の訴え。
脱会した人たちによる、人民寺院で行なわれている搾取や強制労働についての告発。
ライアン氏はカリフォルニア州から選出された政治家で、サンフランシスコに拠点を置いていた人民寺院について興味を抱いていた。
同時にライアン氏は政治家としても個人的な信念としても、弱者の権利を守ることに熱心な人物だったのだ。
信者たちは笑顔でライアン氏を迎え、ジム・ジョーンズも理想郷を演出しようと慈愛に満ちたリーダーとして振る舞った。
だがその裏ではライアン氏に対し、信者が密かに脱会を申し出ていた。
「ここから出たい、どうか助けてほしい」と。
翌日18日の午前中から昼にかけて、脱会を希望した信者を連れてレオ・ライアンたちはジョーンズタウンを後にした。
しかし空港に辿り着いたその時、突然凄まじい銃声が鳴り響いたのである。
空港で彼らを待ち伏せていたのは、ジョーンズの武装組織だった。
突然の銃撃が滑走路を血で染め、ライアン氏と数名のジャーナリスト、そしてライアン氏に訴え出た脱会者が命を落とした。
これがジム・ジョーンズの最後の理性を打ち砕いた。
くそ、すべてが崩れ始めている。
どうしてこうなった? どいつもこいつも裏切りやがって……
ライアンの奴がここに来た時点で全てが終わりだったんだ。
あの男は私の信者を連れて行こうとした。
しかし議員を手にかけたとなればもう戻れない、アメリカ政府が黙っているはずがない。
私の築いた全てが奪われ、信者も何もかも失ってしまう。
奪われるくらいならいっそのこと、私から全て終わらせてやる――
ライアン議員たちが去った後。
ジョーンズは講堂に信者を集め、怒りと絶望を交えた声で語り始めた。
我々はもう終わりだ。
いずれアメリカの軍隊がここに押し寄せ、我々全員の命を奪うだろう。
その前にたっぷりと酷いことをされる。大人も子供もだ。
そんなことはさせない、我々は自分たちの手で革命的な行動を取らねばならない。
ジョーンズはこれを「革命的自殺」と呼んだ。
圧政に屈するよりも自ら命を絶つことこそが尊厳を守る道だと説いたのだ。
だがその実態は、自分の支配を脅かす者すべてを道連れにする無理心中だった。
信者たちはシアン化物を混ぜたブドウ味の飲料を渡され、次々と命を絶つよう促された。
大人たちは震えながらもそれを飲み干したが、子供たちは容赦なく注射器で毒を注入された。
母親たちは泣き叫びながら、愛する子どもが毒に侵される様子を見守るしかなかった。
逃げる者は許さない。
武装した警備隊が信者を監視し、逃亡を試みる者はその場で銃弾を浴びせられた。
ジム・ジョーンズの声は 終始マイクを通して響いていた。
「ヒステリーを起こすな、これは社会主義者としての行動だ。
死は恐れるものではない、それは新たな段階への旅立ちだ」
ジム・ジョーンズの言葉は支離滅裂でありながらも、絶対的な命令として信者たちの心を縛りつけた。
※ちなみにこの時のジョーンズの音声は現在、Wikipedia「人民寺院」のページで公開されている。
ただし内容は非常にショッキングで、人によっては心理的な負担を感じる可能性がある。興味がある方は自己責任でご確認ください。
次々と倒れていく信者たち。
講堂の床は倒れた人々の体で埋め尽くされ、子供たちの泣き声がかき消える頃には、あたりは静寂に包まれていった。
すべてが終わったあと、ジョーンズは最後に自らのこめかみに銃を当てて引き金を引いたのだった。
一夜明け、ジョーンズタウンでは914人が命を落とした。
空港で銃撃されたライアン氏とジャーナリスト、そして脱会者の命を合わせれば、918人の命が失われたことになる。そのうち276人は子供だった。
最終的な犠牲者の数が記事によって908人だったり912人だったりするのは、子供の遺体が大人の遺体の下に隠れていたなどの理由で初期の報告に誤差があり、遺体の数を正確に数えることが難しかったためだといわれている。
しかしそんな中、運命を変えることができた人々も存在した。
集団自殺の直前、信者たちの中にはわずかな希望にすがり密林を抜け出した者もいたのだ。
その朝11人の信者が「ピクニックに行く」と偽って、ジョーンズタウンから脱出を図った。
その中には3歳の息子を連れた母親の姿もあった。
彼らは武装した警備の目をかいくぐり、50キロ以上を歩き抜いて自由を手にした。
密林を進む彼らの心は恐怖と希望に揺れ動いていたに違いない。
また、スタンリーとオデルという2人の男性も、鋭い直感と行動で武装警備の網を突破し命をつないでいる。
一方、別の形で運命を逃れた者もいた。
マイク・プロークス、ティム・カーター、そしてティムとは兄弟のマイク・カーターは、ソ連大使館に資金を届ける任務を与えられていたためジョーンズタウンを離れており、悲劇を免れたのだ。
さらに、サンフランシスコなど別の支部には、当時も多くの信者がいた。
彼らはジョーンズの「革命的自殺」の命令に従わず、その場にとどまることで命をつないだ。
ジョーンズタウンの悲劇の中で、生存者たちはわずかな隙間を突いて運命を切り開いた。
だがその後に残ったのは助かった者たちが背負う罪悪感と、何百人もの犠牲者の記憶、そして世間からの凄まじいバッシングだった。
任務のためジョーンズタウンを離れていたマイク・プロークスは、カリフォルニアで記者会見を開いた後、浴室で拳銃を使い自ら命を絶っている。
この件で亡くなった人の数は、2001年9月11日の アメリカ同時多発テロが発生するまで、1つの事件としてはアメリカ史上最多として記録されていた。
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理想郷を掲げたはずのジョーンズタウンは、狂気と破壊の果てにその姿を消した。
彼が求めた楽園とは何だったのか。
そしてそこに集まった人々は何を信じ、何を失ったのか。
この惨劇は、理想が狂気に飲み込まれる恐ろしさを如実に示した出来事であり、後の世にも深い教訓を残している。
映画「サクラメント」は、この事件をモチーフにしながらフィクションとして再構成されており、非情に興味深い作品となっている。
個人的にぜひともお勧めしたい映画のうちの1つである。
ルドルフ

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