辺獄インフェルノ

世界の怖い事件をまとめています

🌍 世界の片隅で起きた、真実の記録。
遠い国の出来事のようでいて、今を生きる僕たちにも通じる――
このブログでは、実際に起きた事件や人間のドラマを
静かに、丁寧に語り継いでいきます。

ペーター・キュルテン

満たされない欲望

血に飢えた夜の狂気の怪物

 

 

 想像してみてください、夜道を歩く自分の姿を。

 誰もいない夜の通りで、背後から聞こえる誰かの足音……。

 ひたひたと迫る恐怖の人影。

 振り向いた時にはもう遅い、男の牙はあなたに狙いを定めている。

 この事件が発覚したのは1930年のドイツ。

 紳士的なルックスの裏に、恐ろしい欲望を隠した男がいた。

 血の香りに酔いしれる影。苦痛を嗜むことでしか満たされない悪意の化身。

 男につけられた異名は――デュッセルドルフの怪物。

 

 

 ※本事件は100年近く前に起きたため、資料によって年代や人物の年齢等、若干の違いが見られます。

 これは、当時の記録の不備や後年の研究による解釈の違いによるものと考えられます。

 できる限り信頼性の高い情報をもとに構成していますが、一部では異なる説も存在する可能性があることをご了承ください。

 

 

 1930年5月24日

 ドイツ

 ノルトライン=ヴェストファーレン州

 土地の州都であるデュッセルドルフ。

 この日、一人の女性が警察に出向き情報提供を行なった。

 女性いわく、「いま世間を騒がせている連続殺人事件の犯人は自分の夫」なのだという。

 夫である男はこの女性に対しこう言った。

 

 警察に僕のことを通報して、僕にかけられている報奨金を受け取り老後の蓄えにしなさい。

 

 男の名前はペーター・キュルテン、逮捕当時47歳。

 少なくとも9名の命を奪ったこの男は「デュッセルドルフの怪物」と呼ばれ、ドイツ中を震撼させたシリアルキラーなのである。

 

 

◆男の歩んだ過去

 ペーター・キュルテン

 1883年5月20日

 ドイツ、ミュルハイム・アム・ラインの生まれ。

 13人兄弟の長男として生まれたキュルテンだが、兄弟のうち2人は幼いうちに亡くなっているという。

 キュルテンが育ったのは、息をするのも窮屈なほど狭いアパートだった。

 貧困による空腹に苦しむ子供たちと、酒に溺れた両親。

 そこは、家と呼ぶにはあまりにおぞましい空間だった。

 

 夜になると響く父親の怒声。

 父は酔いにまかせて妻に手をあげ、子供たちを震え上がらせていた。

 母親の悲鳴が響く部屋で、幼いキュルテンは息を潜めた。

 ただ静かに、嵐が過ぎるのを待つしかなかった。

 しかも父による悪夢は暴力だけではない。

 父は酔うと子供たちを部屋に集め、全員が見ている前で母親の体を強引に犯したのだ。

 

 キュルテンが11歳の時、家族はデュッセルドルフへ引っ越す。

 そして引っ越しから3年後の1897年、父親は実の娘――つまりはキュルテンの妹に手を出した。

 それがきっかけで父は逮捕され、18カ月投獄されている。キュルテンはそんな環境で育っていたのだ。

 

 そうしてキュルテンは、早くから「逃げる術」を学んだ。

 学校が終わっても家には帰らない。帰れば、父の怒りの標的になるだけだからだ。

 父親からの虐待により勉強に身が入らず、優秀だった成績もみるみる順位が下がっていく。

 数日、時には数週間、キュルテンは家から逃げ出し路上で過ごすようになった。

 そこで出会ったのは社会の底に沈んだ人々、軽犯罪者や社会のはみ出し者たちだった。

 キュルテンは彼らから生き延びる術を学んだ。

 窃盗、詐欺、時には暴力を振るうことで、今日の食事を手に入れる。

 最初は必要に迫られての行動だったが、次第に彼の中に新たな感情が芽生えた。

 それは、自分が他者を支配する快感。

 

 とはいえその感情はここで突然湧いたわけではなく、もっと幼い頃からその片鱗はあったと思われる。

 それはキュルテンが9歳の時のこと。

 丸太のいかだに乗って2人の友達と遊んでいた時、キュルテンは友達が泳げないことを知りながら、いかだから突き落としたのだ。

 もう1人の友達が慌てて溺れている彼を助けようとする。

 その瞬間キュルテンは、その友達の頭を押さえつけて水中に沈めた。

 結局2人の友達は亡くなってしまったのだが、この件は事故として扱われたのである。

 その4年後には野犬の捕獲をしていた大人の男と親しくなり、彼の真似をして動物にひどいことをするようになった。 

 

 また13歳の時につき合ったガールフレンドと関係を持とうとした時、彼女に拒否されたキュルテンは、なんと羊や山羊などの動物相手に行為をするようになった。

 それだけでは飽き足らず 妹にも手を出そうとしたこともあった。

 やがてその衝動は、相手を「物理的に傷付けたい」という暗い欲望に変化していく。

 

 14歳で学校を中退し、鋳物師の見習いとして働き始めたキュルテン。

 だが2年が経った頃、彼は家にあった金をすべて盗み、さらに雇い主からも金を奪い取ると逃げるようにして家を出た。

 

 行き着いたコブレンツで、キュルテンは2歳年上の売春婦と関係を持ち、彼女との生活に溺れていった。

 しかしそんな自由も長くは続かず、4週間後――キュルテンは住居侵入と窃盗の罪で逮捕される。

 初めての刑務所生活はわずか1ヶ月。

 

 1899年8月。

 釈放されたキュルテンが戻ったのは、かつての犯罪にまみれた生活だった。

 むしろ刑務所で出会った犯罪者たちの影響で、彼はより巧妙に、より大胆に犯罪を繰り返すようになっていった。

 盗みは手慣れたものであり、暴力は日常の一部となる。

 そして何より、彼の内に潜んでいた「異常な衝動」は ますます膨れ上がっていくのだった。

 これが、やがてデュッセルドルフの怪物と呼ばれる男の若い頃の話である。

 

 

◆成長する怪物

 1899年11月、ペーター・キュルテン16歳。

 キュルテンの主張によると、この年彼は18歳の女性に声をかけて親しくなり、関係を持った後で彼女の首に手をかけて意識を失わせたという。

 ぐったりとした彼女を見て息を引き取ったと思い、キュルテンはその場を立ち去った。

 だが、キュルテンのこの主張に関する証拠などは見つかっておらず、この時の被害女性は恐らく息を吹き返し逃げたと思われる。

 もしもそうだとしたら女性の命が助かってよかったものの、キュルテンはこの時の経験がきっかけで、「この方法が一番性的に興奮する」と実感したのだそうだ。

 

 その約1年後、キュルテンは詐欺で逮捕された。

 一旦は出所したもののまたすぐに詐欺で再逮捕され、この時に過去の窃盗事件と、鈍器で少女を襲った件が起訴状に加えられた。

 結果、懲役4年の刑が言い渡された。

 

 4年後。

 1904 年の夏に釈放されたキュルテンは、ドイツ帝国軍に徴兵された。

 歩兵連隊となったのだが、すぐに軍から逃げ出している。

 そして同年の秋ごろからキュルテンは放火をするようになり、よその家の納屋や干し草などに火を点けて回った。

 同年の大晦日に逮捕され、約 24 件の放火行為を行ったことを認めた。

 動機は「火を点けることで性的興奮を得た」こと、そして「火事に気づかず眠っている浮浪者を燃やす目的で行なった」と自供したのである。

 

 軍を脱走したことでキュルテンは軍事法廷で裁判にかけられ、脱走、放火、強盗、強盗未遂で有罪となる。

 そうして1905年から1913年までを獄中で過ごすこととなったのだった。

 

 1913年、ペーター・キュルテン30歳。

 窃盗目的で商店に侵入した際、店の奥の寝室で眠る少女クリスティーネ・クラインを発見。

 キュルテンは無防備なクリスティーネを力任せに襲った後で、彼女の命を奪ったのである。

 この犯行は、キュルテンの立証される最初の殺人だった。

 だが、キュルテンはここで決定的なミスを犯した。

 自分のイニシャル「PK」という刺繍が入ったハンカチを現場に残してしまったのだ。

 しかし運命は、奇妙な方向へと転がっていく。

 偶然にもそのイニシャルは、被害者の父親と同じものだったのである。

 警察は父親を疑い、厳しく追及。

 こうしてキュルテンは疑われることなく、血塗られた手を隠したままその場を後にした。

 のちにその店の近くにある酒場で飲んで、事件について語る客の声に耳を澄ませては悦に浸っていたという。

 

 だがその後まもなく別件の窃盗容疑で逮捕され、キュルテンはその後8年間を刑務所で過ごすこととなる。

 この間に世界は大きく変わり、第一次世界大戦が勃発。キュルテンの暗い衝動は一時的に眠ることとなる。

 

 1921年。

 刑務所を出所すると、キュルテンは新たな人生を歩み始めた。

 彼はテューリンゲン州アルテンブルクへ移り住み、一人の女性・オーギュストと出会う。

 やがて二人は恋に落ち、結婚へと至った。

 キュルテンは自身の妻に対して優しく振る舞い、大切に愛を育んでいた。

 

 1925年。

 デュッセルドルフに戻ったペーター・キュルテン。

 地元の鋳型工場に就職し、有能で勤勉な労働者としての評判を築く。

 労働組合にも熱心に関わり、上司や同僚からは信頼され、近隣住民からも礼儀正しく物静かな紳士と見られていた。

 しかしその笑顔の裏では、内なる狂気が再び目を覚まそうとしていた。

 

 

◆暗躍する怪物

 オーギュストとの結婚生活は順調だったが、キュルテンは特に親しい友達も作らず 静かに日々を過ごしていた。

 また妻との夜の営みは、結婚した初夜以外はほとんど行なっていなかったという。

 自身の凶暴さを妻には隠していたからだ。

 代わりに、妻以外の人間にその狂気が向けられたのである。

 

 1929年2月3日。

 キュルテンはアポロニア・キュンという中年女性の後をつけ、ひと気のない場所で彼女に襲い掛かった。

 そうして彼女を藪の中に引きずり込み、少なくとも24回ハサミを振り下ろした。

 傷はとても深かったが、奇跡的にもアポロニアは一命を取り留めている。

 

 1929年2月8日。

 キュルテンは8歳の少女ローザ・オリガーに近づき、刃物を使って命を奪った。

 彼女の遺体には灯油がかけられていた。

 

 2月13日。

 酒を飲んでキュルテンにまとわりついた45歳の男性ルドルフ・シェールの命を奪う。

 刃物による刺し傷は20箇所に及んでいた。

 

 3月から7月の間に、3人または4人の女性を襲ったが、この時の被害者は命までは奪われていない・もしくは一命を取り留めたとされている。

 

 8月11日。

 20歳の女性マリア・ハーンを襲って首に手をかけ、命を奪った後にハサミをふるう。

 マリアは息絶えるまで何度も命乞いをしたという。

 キュルテンはマリアの遺体に執着し、埋めた後で掘り起こしたり、何度も現場に訪れては妄想に耽ったりしていた。

 

 8月21日。

 キュルテンは警察の目を欺くため、狂気の刃物をハサミからナイフに替え、この日だけで3人を襲撃した。

 いずれも通り魔的な犯行で、3人とも重症を負ったが命は助かっており、男が無言で襲ってきたと警察に訴えた。

 

 8月24日。

 帰宅途中の二人の少女に目をつけたキュルテン。

 14歳のルイーズと5歳のゲルトルーデは、里子同士で姉妹のように仲がよかった。

 キュルテンはルイーズに「お金をあげるから煙草を買ってきてくれ」と頼み、一人で買い物にいかせた。

 そして自分の元に留まらせたゲルトルーデをナイフを使って手にかけ、畑に遺体を遺棄。

 ルイーズが煙草を買って戻ると、キュルテンは彼女にもナイフをふるい、喉を噛んで血を啜り命を奪った。

 

 その日の午後。

 キュルテンは27歳のメイド、ゲルトルート・シュルテに襲い掛かった。

 彼女は頑なにキュルテンを拒み、「お前と寝るくらいなら死んだほうがマシだ」と叫んだ。

 カッとなったキュルテンは、「じゃあ死んでしまえ」と叫び彼女を何度も刺した。

 ゲルトルートはなんとか一命を取り留めたものの、警察にキュルテンの有益な情報や特徴を伝えることができなかった。唯一報告できたのは「40歳くらい」ということだけだった。

 

 9月29日。

 31歳のイーダ・ロイターを、ハンマーで殴打し命を奪う。

 

 10月11日。

 エリザベス・ドリアーを、ハンマーで殴打し命を奪う。

 

 10月25日。

 2人の女性をハンマーで襲ったが、この2人は命を奪われることなく逃げることができた。

 

 11月7日。

 5歳のゲルトルート・アルバーマンを絞殺後、執拗に激しくナイフをふるう。

 

 時は少し遡り、1929年――夏の終わりごろ。

 デュッセルドルフを震撼させた連続殺人事件は、国内外の注目を集めていた。

 犯人は無差別に襲いかかり、手口は一定せず、被害者も老若男女を問わない。

 あまりにも残忍な犯行に、警察もマスコミも「これは単独犯ではなく、複数の人物によるものではないか」と推測するほどだった。

 やがて世間は、この正体不明の殺人鬼にデュッセルドルフの怪物・またはデュッセルドルフの吸血鬼という異名を与えた。

 

 デュッセルドルフ警察には一般市民から13,000通を超える手紙が寄せられ、警察は周辺の部隊と連携しながら手がかりを追った。

 9,000人以上が事情聴取を受け、2,650の手がかりが丹念に調査され、90万人の名前が公式の容疑者リストに載せられた。

 これほどの大捜査にもかかわらず、警察は未だ犯人の正体を掴めずにいた。

 

 

◆最後の犯行

 11月9日。

 地元の共産主義新聞に、マリア・ハーンの墓の場所を示す地図が届いた。

 そこには、すでに発見されていたゲルトルート・アルバーマンの遺体の位置も正確に描かれていた。

 筆跡鑑定の結果、この地図を送った人物は以前警察に匿名で「ハーンの遺体は森の端に埋めた」と通報した者と同一であると判明。

 そして、それまで新聞や警察に送られていた犯行声明や脅迫文3通の筆跡とも一致した。

 この証拠からベルリン警察の主任警部は、連続殺人事件のほぼすべてが「たった一人の男による犯行」であると断定した。

 

 1930年。

 ペーター・キュルテンは人の命を奪うだけでなく、ハンマーによる襲撃や絞殺未遂を繰り返し10人以上を負傷させた。

 だが彼らは一命を取り留め、警察に襲撃者の特徴を証言していた。

 

 5月14日。

 デュッセルドルフ駅で、マリア・バドリックという20歳の女性に接触する男がいた。

 彼女が仕事を求めて街に来たことを知ると、男が下宿を案内すると申し出た。

 しかし男が人の少ない公園へと誘導しようとしたため、マリアは不安を抱く。

 そこへ別の男が現れ、「お困りですか?」と声をかけた。

 マリアがうなずくと、始めの怪しい男は立ち去った。

 だが、その「助けに来た男」こそが ペーター・キュルテンだったのである。

 

 キュルテンはマリアを自宅に招き、「僕の家でお茶でもどうか」と誘ったが、マリアはキュルテンの真意を察し、「体を許す気はない」と拒否した。

 キュルテンは冷静にそれを受け入れるふりをし、代わりにホテルへ案内すると提案。

だが、向かった先はグラーフェンブルクの森だった。

 そこでキュルテンは彼女の喉を掴み、絞め殺そうとしながら強姦を試みる。しかしマリアが必死に叫ぶと、突然手を離して彼女を解放した。

 

 彼女はこの事件を警察には通報しなかったが、友人への手紙に詳細を書き残していた。

 しかし宛名の誤りによって手紙は届かず、約5日後に郵便局で開封され、その内容が警察に通報されたのだ。

 

 警察はマリア・バドリックに事情聴取を行ない、彼女はキュルテンの住所を知らないふりをしたから逃れられたと証言。

 どういうことかというと、キュルテンは森の中で一度はマリアの命を奪おうとしたのだが、ふいに首にかけた手の力を弛め、彼女にこう言ったのだ。

 

「僕の家の住所を覚えているか?」

 

 マリアが「知らない、覚えていない」と言い張ると、キュルテンはそのままその場を去ったのだ。

 だがもちろんマリアは、キュルテンの住所を覚えていた。

 そうして警察をキュルテンのアパートに案内し、家主から彼の名前を確認。

 ついに、ペーター・キュルテンの正体が暴かれたのである。

 

 

◆逮捕と告白

 警察がキュルテンの家を捜索していた際、彼は家にはいなかった。

 共用廊下で捜査中の刑事と、被害者のマリア・バドリックを見かけたキュルテンは、すぐさまその場を離れる。

 警察に身元を知られたと確信したキュルテンは、自分がマリア・バドリックを襲ったこと、前科があるため再び長期間の懲役を受ける可能性があることを妻に告白。

 彼女の同意を得て、一時的に別の場所へと身を隠した。

 

 5月23日。

 ついにキュルテンは妻に自分の正体を明かす。

「デュッセルドルフの怪物は、僕なんだ」

 キュルテンはすべてを告白し、自分を通報すれば報奨金が手に入るからそれを老後の蓄えにしなさいと妻に迫った。

 そして翌日、妻は警察に通報。

 警察に対し、「夫の過去の投獄歴は知っていたが、殺人犯であるとは知らなかった」と説明した。

 

 その日の午後、キュルテンは聖ロクス教会の前で逮捕される。

 銃を突きつけられた彼は、抵抗することなく警察に身を預けた。

 

 取り調べでキュルテンは自らの犯行を次々と認めた。

 9件の殺人、31件の殺人未遂を含む68件の犯罪。

 さらに未解決だった1913年のクリスティーネ・クライン事件の犯人も自分であると告白。

 

 しかしキュルテンは、決して自分を悔いることはなかった。

 彼は自らの犯罪を弁解することなく、自分は人生で不当に扱われてきたと語り、それを理由に殺人を正当化したのだ。

 そうして、子供には断じて惨い拷問などはしていないことを主張し、その他の被害者に行なったおぞましい行為についても自供した。

 犯行は妻の夜勤中に行い、被害者によって刺し傷や殴打の数が違うのは、絶頂に達するまでにかかった時間の長さによって異なっていたためと説明。

 

 1931年4月13日。

 ペーター・キュルテンの裁判がデュッセルドルフで開かれた。

 キュルテンは証言の際を除き、特別に作られた鉄の檻に収容され、足枷をはめられた状態で裁判を受けることとなった。

 9件の殺人と7件の殺人未遂で起訴された彼は、精神異常を理由に無罪を主張。

 

 検察はキュルテンの自白を読み上げ、彼の犯行動機を追及した。

 キュルテンは、「犯行を振り返ることは不快ではなく、むしろ楽しい」と述べ、後悔の念は一切ないと断言した。

 

 弁護人は無罪を主張したが、5人の医師や精神科医が「彼は正気であり、犯行をコントロールできた」と結論づけた。

 ある医師は、彼の犯行の90%はサディズム、10%は幼少期の虐待や投獄の復讐心によるものだと証言した。

 

 裁判は10日間続き、4月22日――わずか2時間の審議で陪審員は有罪判決を下した。

 キュルテンはギロチンによる死刑判決を下されたのだった。

 

 判決の際キュルテンは感情を一切見せず、最後の陳述で「私の罪はあまりに恐ろしい、言い訳はしない」と語った。

 控訴はせず、死刑の恩赦を求める請願を出したが7月1日に却下。

 犠牲者の遺族と妻に手紙を書く許可を求め、それは認められた。

 

 

 1931年7月1日。

 執行を翌朝に控えたペーター・キュルテンは、最後の食事を注文した。

 ウィンナーシュニッツェル、フライドポテト、白ワイン1本。

 キュルテンはおかわりを求め、看守たちは黙ってそれを認めた。

 

 翌朝、7月2日午前6時。

 クリンゲルプッツ刑務所の処刑場へと歩くキュルテン。足取りは重くはなかった。

 

 死刑執行の直前、キュルテンは刑務所の精神科医に向かって問いかけた。

 

 教えてください。

 首が落ちた後、私は切断面から自分の血が噴き出す音を 聞くことはできますか?

 

 返答があったのかはわからない。

 看守が「最後に言い残すことは」と尋ねると、ペーター・キュルテンはただ一言、「いいえ」とだけ答えた。49歳だった。

 

 

 ★

 

 

 恐ろしい欲望を満たすため、罪のない人々を襲ったペーター・キュルテン。

 血を浴びて狂喜の絶叫をしていたという彼は、一連の犯行を後悔していないと主張したが、本当に心から満たされていたのだろうか。

 彼が抱いていたのは生まれ持った闇なのか、それとも育まれた狂気なのか。

 彼の死とともに、その答えもまた闇の中へと消えてしまった。

ルドルフ         

 

 

 

 

 

 

 

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